自分が専門としている学問に関して、最近、今まで体験したことのない体験をした。
私の専攻は「古代ローマの宗教」であって、歴史学の手法で古代史料を読み解きながら、古代ローマ人の宗教の様相を読み解き、再構築を試みようという主眼である。
その歴史学においては、史料の読解が大変重要視される。ある史料を読む際には、既存の訳がある場合には出来る限りそれらを参照しながら、自分で訳を作成し、さらに語の用法については、Codexや参考になる同時代の史料にも当たりながら、訳を決定してゆく、というプロセスが決定的に重要なのである。そして、その背後から浮かび上がってくる時代の様相を描き出してゆく。
二次文献に関しては、そのテーマについてどのように今まで議論が論じられてきたか、基本的なものはきっちり通読する。しかし、自分が精通している分野に関しては、一冊の本の中のある論文の中のある一章、あるいはほんの数節だけを読むこともある。こういう場合には、Indexを使って、自分が気になっているキーワードが出ているページを探して、そこだけを読むことも起こりうる。
しかし、自分は今まで、少なくとも一次史料に相当するものに関しては、日本語訳や英訳があれば何度も通読し、さらに古典語で読解しながら訳を作ってゆく、という作業を怠らなかった。
だが最近、ある発表をする際に、その発表の中で「一次史料」に相当する文書に関して、Indexで探したキーワードが出ている箇所だけ拾って読む、ということをしてしまった。
一応それで発表原稿を作成することは出来たが、自分の中で今ひとつ納得がゆかない。このような断片を、深い行間の読みや背景の検討がないままに、繋ぎ合わせることに自分の中で危機感を覚えているのだ。
学会発表とて、コミュニケーションの一ツールである。このように情報の深い読みがないままに、断片で繋ぎ合わせて、何とか見映えのする発表原稿を作る、というのは私だけのことではない。周りの学生たちの発表を見ていると、日本であるかイギリスであるかを問わず、かなりそういう繋ぎ合わせのものが多いのである。勿論少数ながら、深い読みと背景の検討を兼ね備えた発表はあるにはあるが、多数派ではない。何か無理やり、小奇麗な布を集めてきて、パッチワークを作ってみました、という感がするのである。
そして、そのような感覚の裏にあるのは、ウェブを中心とした、コミュニケーションのあり方の軽量化があるような気がしてならない。
ウェブでは多量の情報が流れているので、拾い集めるのは容易だが、集めた一つ一つの情報を丹念に検討し、背景まで洗っている暇はないのが現実である。深い検討もなされずに、表面の類似性を手がかりだけにして、ざっと集めて並べるだけであるから、交ぜ織りどころか、単なるパッチワークで終わってしまう。
こんなことを考えていたら、CNETで渡辺聡氏の情報化社会の航海図「千夜千冊を終えて、越えて」(2004年07月26日)という記事に出会った。
http://blog.japan.cnet.com/watanabe/archives/001422.html
ちょっと時が経っているが、内容は色褪せるものではないので、引用してみたい。
ウェブの世界で最近起きていることといえば、情報の断片化と分散化である。サーチエンジンが良く使われるようになり、ファイル単位で情報が流通しやすくなったことなどが原因として指摘出来るが、結果として情報の背後にあるコンテクストが薄くなった。断片的に押し寄せる情報に対してあっちとこっちの関連性を紐付ける場面が少なくなっている感覚を受けている。これは情報そのものが変わったというよりは、断片的な情報に触れる機会の方が多くなり、シェア変動が起こったことから緩やかにシフトが起きているというのが現実に近いだろう。失われたものは読み手が引き受けるしかない。リテラシーは以前より必要になっている。
「関連性を紐付ける」ことは重要である。学問の世界では、なぜ引用しているのか、その理由が明確でなければ引用をすべきでない。情報は時系列なり、ある一定の法則に則って整理し直されて提示されるべきである。場合によっては、その整理の仕方にオリジナリティが認められることだってあるのだ。
分散化はまた集めればよいとしても、断片化している情報を再構成するのは容易なことではない。しかし、西洋古典学の分野では、古代史料というものは大概断片化しているわけだから、そのこと自体は余り問題ではない。古代史料と現代の情報とが比べ物にならないのは、数量である。
古代史料は、考古学の成果による未知の発見でもない限り、そしてそれは滅多に起こらないから、全体量が増えることはまずない。しかし、現代の情報は、刻々と増えてゆく。しかも、情報ロンダリングとでも言うべきか、ソースが転々としてゆくために、情報の出所すら確定し得ないほどに、野火のように広がってゆく。しかも、ウェブの世界ではコピペ(copy & paste)が常識であるから、筆跡鑑定が出来るわけもなく、情報は、引用者によって切り細裂かれ、場合には元来の意味と逆のコンテクストで使われたりしながら、広まってゆく。現に私も渡辺氏の文章の中で、我が意を得たりと思ったところを選び出しているが、彼の元の文のコンテクストは無視しており、読みたい人が見られるように、上記にリンクを示しているだけである。こういう時代にあっては、ある一つの史料がどのように転写されて展開していったかなど、全く追跡不可能である。
最近、Blogpeople が「Trackbackpeople」と題して、ある題に関して、それに関する記事を書いたら、トラックバックするようなサービスを打ち出した。これは、ネット社会に氾濫する情報に関して、少しでも意味の連関性を手繰りやすくしたいという、人々の希求が形をとって現れたと考えられなくもない。
しかし、これはまだまだ小さな試みであって、大まかな潮流は大量の情報の断片化と分散化の方向に向かっていると考えられる。
恐らく今回私が感じた危機感は、自分がついにその流れに与するコミュニケーションの形を、学会発表という、自分ではそうであってはならないと思っている場でやってしまった、という負い目からくるものであろう。そして、これが自分だけの失態ではなく、学問界の流れの中でも、そのように断片化したものを深い読みなしに浅く繋ぎ合わせてよしとする傾向が強まっていることに対して、危機感を感じているのだと思う。
学問といえども、学会発表や論文という形をとって、他者に伝える以上、それはコミュニケーションの一ツールである。だから時代の趨勢の影響を被るのは致し方がないと言えば致し方ないのかもしれない。しかし、自分の中には、せめて自分だけでもそうはなりたくないという思いがある。そして、その思いが時代の趨勢に逆行していると十分にわかっているからこそ、違和感を感じるのだと思う。
今のところ、これ以上考察を進めることも具体的行動を起こすことも出来ないが、このように考えたプロセスと、本能的に違和感を感じた事実だけは忘れないようにして、ものを書く作業を続けてゆければ、と思う。
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